ヘタレな無職の日記

仕事ができず窓際に追いやられた無能リーマンが節約と投資、副業で資産形成し、31歳で退職しました。これからは少しの小遣い稼ぎ(Uberとか)と家庭菜園、資産切り崩しで生きていきます。

自分の幼少時代から大学時代までを語ってみる その③(小学校時代 ~家庭内環境~)

 

さてと引き続き小学校時代、家庭内環境について書いていこうと思います。

 

小学校時代 家庭内環境

保育園時代から両親の関係は冷えているのを感じていたが、小学生になると、喧嘩も増え、毎日のように怒鳴り合ってたような気がする。

当時まだ小学生で幼かったので、やはり両親の喧嘩が心身ともにこたえた。両親が仲悪いとホントにきつい。

母親も育児放棄気味で、夜も外出していることが結構あった。

それでも父親が「俺が嫌いでも良いからせめて子供の面倒は見てくれ。」と懇願し、外出しても夕方5時以降は家にいるようになった。

その当時は学校から帰宅すると母親が家にいるもんだからとても嬉しかった記憶がある。

けど、夕飯を終えると、「ご飯食べたら、2階の自分の部屋へ行ってね。」と何かと1人になりたがっていた。

「次1階に来て良いのは10時以降ね。」と言うので、10時になってから1階へ来て見ても、母親は椅子に座ったままうたた寝してたりと大して相手にしてくれなかったが。

ま、それでも当時は家にいてご飯作ってくれるだけでも、嬉しかった。

そういう状態が小学校4年生まで続いたが、次第に家族旅行に行く頻度も減っていき、気づけば、母親不在で父親と姉2人と俺だけで旅行に行ったりもした。

母親不在なので寂しかったし、父親も何か疲れた顔してて元気がなく、何か暗い旅だったのを覚えてる。

冬に夕方に見た旅行先の関門海峡の濁った海を見て、何か飲み込まれそうな気分になって、まるで自分の暗い気持ちと同調しているような感じだったのを今でもはっきり覚えている。

 

そして気づけば両親は離婚。

学校から帰宅していると引っ越し業者が来ていて、母親が微笑みながら何も無いかのように振る舞い、自分も鈍感だったので、そのまま友人の家へ遊びに行き、そしてまた帰ってくると、家に置いてあった家具が何個か無くなっており、母親もいなくなっていて、そこで初めて事態を察知したのをよく覚えている。

両親の関係は冷え切っていたので、分かっていたものの、いざ現実を見させられるとショックであった。

 

しかし、それから1か月もすると、父親が何か知らない女の人を家に連れて来た。

いきなりすぎてびっくりしたが、何と今日から母親代わりになる人だと父親がのたまっていた。

私は言うほど何も感じて無かったが、姉貴たちは絶句していた。

しかし、その女の人も普通に優しくしてくれるし、母親がいなくなったばかりで寂しさを抑えられなかった当時の私は、すぐに打ち解けた。純粋だな私。(笑)

 

女の人は父親と入籍するまで姉貴たちにも優しく接していた。

姉貴たちも最初は戸惑いながらも、若干受け入れつつあったように思う。

しかし、入籍した途端に女の人は私たちの前でこう言った。

「これから私が母親になるから、私の言うことはこれからしっかり聞いてもらうからね。」

こんなことを言ってた気がする。

言い方が良くなかったか、姉貴たち、特に次女のほうは強い反感を抱くようになっていた。

次女は特に以前の母親のことが大好きだったので、尚更反感が強くなったように思う。

そこから次女姉は事あるごとにその義母に対して、反抗するようになり、義母もブチ切れて喧嘩をするようになり、関係は悪化した。

義母はプライドが高く、小娘ごときが自分に逆らうのが許せない、そんな気持ちが強いせいか、次女姉に対する当たりは本当に強かったように思う。

ただ口喧嘩するだけなら良かったが、次第には次女姉の部屋をめちゃくちゃにしたり、暴力も振るうようになったので、見ているこっちも恐怖だった。

もはや一方的で当時中学生だった次女姉が泣いて怯えているのに、そんなの知ったことかの如く容赦なくボコっていた。

 

当時私は義母に対して母親と同じように慕うようになっていた。

最初は怒らせるのが怖くて、長いものに巻かれるような感じで良い子ちゃんになって義母と接するようになった。義母もそんな自分だけは可愛がった。

なので、当時の純粋さもあって私は次第に義母のことを母親という認識で見るようになってたんだけど、実の姉がその義母から激しい暴力を振るわれているのがとても信じられず、というか信じたくなかった。

だから姉が暴行されているときは、姉自身に原因があり、義母はしつけでやっていると無理やり思い込んだ。あの義母が姉を虐待しているとは絶対に思いたくなかったので。

 

ある時、次女姉が実の母親のほうを、家に連れてきて、家で私含め3人で一緒に食事したことがあった。もちろん義母や父親に内緒で、義母と父親が二人で旅行に行ってる間に次女姉が計画した。

この時、長女姉のほうは、部活の試合か何かだったので、不在だった。

3人で楽しく食事をし、もちろん義母や父親にも内緒でということだったんだが、なぜかそれが義母にバレて、怒り狂った義母は次女姉が帰宅するやいなや、髪を引っ張って、床を引きずり回し、壁に思いっきりぶつけたり、蹴りを入れたりした。

それを見ていた自分は恐怖で何もできず、長女姉は「辞めえや・・。」とか細い声で一応止めたが、「お前は関係ないだろ!」と肩を叩かれて、これまた止めることができなかった。

 

なぜこの事件がバレたのかというと、どうやら次女姉が日記を書いていたらしく、その日のことも詳細に綴っていたために、それを義母が見てしまったためだったらしい・・。

この事件をきっかけに、次女姉は義母から絶縁を迫られ、父方の祖母の家に引っ越し、そこで暮らすことになった。

 

しばらくして、長女姉ともうまくいかず、長女姉も祖母の家に引っ越した。(長女姉には暴力とか一切無かったが、何やら長女姉が通う高校で義母といざこざがあったみたいで・・。)

私一人だけになってしまった。

 

一度私も義母と大喧嘩をし、義母から「お前も祖母の家へ行くか?」と言われた。

ムカついていたから私はイエスと答えた。すると、気が狂ったかのように義母がブチ切れて、逆に祖母の家に私が引っ越すことは阻止された。

これは中学時代の話か?

義母は私とも縁が切れたら、父親に愛想を尽かされて居場所が無くなると思ったのか、あるいは一番可愛がっていた私と縁が切れるのは、一番自分のプライドを傷つけたのか・・。

 

一方、実の母親こと産みの母親とはどうなったかというと、離婚後もしばらくたまに会って、姉貴たちと一緒にご飯を食べに行っていたが、あの事件以降しばらく会うことができなかった。

そして、再び会うことを許されたが、私自身母親に対する情が冷めていっていたように思う。

あの事件の時、義母は母親にも電話で問いただしたが、母親は動揺し、逃げるように電話を切った。家にも来なかった。それも見ていたせいかもしれない。当時は逃げたと思って不信感を抱いた。

それと義母に対しても離婚した母親と会っていることに引け目を感じるようになっていたのもある。

母親と最後に食事した時に、私はかなり冷たい態度を取っていた。それを見た母親は「私が嫌いになったの?」と私に聞くので、「嫌いではないよ。」と言ったが、それ以上は何も言わなかった。

帰りの車で母親は泣きながら運転し、隣の席にいた次女姉が母親の手を握りながら、私のことを睨みつけていたのを今でも覚えている。

それから社会人になるまで、母親とは一度も会わなかった。

 

こんな感じかな。

大人に翻弄される子供って感じだね。

当時は義母と母親の間で、どっち側に付かなきゃならないかで、気持ちが板挟みにもなってましたね。

取り合えず一緒に住んでいたのもあって、義母側に付いてましたが。

義母からよく「産みの母親と育ての母親どっちが大変か分かる?」「産みの母親はお腹を痛めて生むだけ。育ての母親は心を痛めて育てるんや。」と何度もよく聞かされていたので、それもあって実の母親より義母に遠慮するようになったのもあると思う。

「私はこんなにやっているのに。」とか「お前に情は無いんやな。」とか私自身を責めるようなこともよく言われたので、そうやって罪悪感を刷り込まれていったと思う。

 

仕事でも他人に業務をお願いする際も、引け目を感じすぎて低姿勢になりすぎ、言葉選びも慎重になりすぎて、そうすると相手が苛立ってくるので、結局言葉を間違えて怒らせるということが良くあったが、これもその影響かもしれないですね。

 

ま、なんやかんやで色々あったが、今は紆余曲折あって母親とは仲直りし、義母も結局父親と離婚し、遠くへ引っ越してしまったが、たまに電話したりして一応仲良くやっている。

しかし、小学校時代の家庭環境はトラウマすぎますわ。

いや、これでもマシなほうかもしれないけど、当時は周りの普通の家庭が羨ましくてしょうがなかったですね。

もう、義母と母親を見てたから、女の人が怖くなって結婚願望も失せましたからね。(笑)

さて、小学校時代はこれで終わり。

次は暗黒時代というより、自分の恥ずかしい黒歴史が強い中学時代を書くね。( *´艸`)