ヘタレな無職の日記

仕事ができず窓際に追いやられた無能リーマンが節約と投資、副業で資産形成し、31歳で退職しました。これからは少しの小遣い稼ぎ(Uberとか)と家庭菜園、資産切り崩しで生きていきます。

日本人はもっと利己的に生きるべきである。

さて、前回の記事↓

https://nbombombonds.com/2020/11/23/post-4732/

セミリタイア者がなぜ自己責任論を振りかざして、弱者を叩くのかについて、佐藤直樹さん著作の「世間学から考える加害者家族バッシング」を参考に書きました。

本記事では、セミリタイア者と自己責任論に関して、最終的な考えを書こうと思います。

現在の日本の「世間」ができた歴史的背景

日本の「世間」は「法律」と「世間のルール」の二重構造で縛られていると前回の記事で書きましたが、そもそも何でこんな構造になっちゃっているのか、少し言及しておきましょう。

そもそも海外、例えばヨーロッパでは、「世間」という概念は無く、「社会」になります。「社会」とは「個人の集合体」と概念付けされています。その「個人」には人権があることが前提となっています。

元々、11世紀~12世紀の間ではヨーロッパにも「世間」が存在しましたが、宗教としてキリスト教が台頭してくると、「告解」が普及し、罪の赦しを得るために、教会にて必要な告白や儀礼を行うことで個人の内面をさらけ出していきます。

そしてしばらくすると、年に1回、成人の男女は自分の内面を教会で神に告白することを義務づけられるようになるわけです。

こうして、内面を持つ個人が誕生したわけですね。

この個人を基礎として「世間」という人的関係が否定され、社会という人的関係が形成される。しかし日本では、キリスト教が支配した歴史もないし、「告解」の伝統もない。そのため個人も社会も形成されなかった。

明治維新以後に、西欧から近代の政治や科学などの導入には成功しましたが、社会の導入には失敗した。

江戸時代以前から根付いている「世間」の上に形として「社会」が乗っかる形となり、「社会」は形だけですから、「世間」が本音として、存在することになってしまったと。

なので、この日本社会の「社会」は形だけで、「法律」も「タテマエ」として位置づけられ、「法律」よりも「世間のルール」が優先されるような世界になってしまっているといった感じである。

「世間」に論理は無い。

以前の記事で、セミリタイア者が一般世間のルールを守っていない存在であるのに、生活困窮者などの弱者に対し、自己責任論を振りかざし、厳しい態度を見せるのかについて、自助できる者だけが労働から解放されて良いのだというルールがセミリタイアクラスタ界隈で形成されてしまったからでははないかと私の考えを述べました。

健常者でも生活保護を受けることは法的には可能であるのに、セミリタイア者は「自助しろ!!」「甘えた奴は公助受けるな!!」と批判する。

西欧では逸脱とみなされないような些細な行為であっても、ニッポンでは「世間のルール」に反する逸脱行為として、やっちゃいけない「悪」だとみなされる。そのため、ニッポンでは「法のルール」に反するような違法行為や犯罪行為は、「世間のルール」に反する行為であるのは当然として、西欧では考えられないほどの「極悪非道の行為」として「世間」から非難され、「世間」から排除されることになる。

 

西欧では「世間」が無いために、「社会を離れては生きてゆけない」とは決して考えない。社会は「世間」のような細かいルールではなく、「法のルール」に動いているからだ。だから西欧の人間にとっては、自分の行為が「法のルール」に反するかどうかだけを考えれば良い。

 

社会がしっかりと形成された西欧では、権利意識が強いと言います。アメリカの犯罪者でも、反省するどころか、「くたばれ警察」と書いたシャツを着て、法廷に立ち、挑戦的な個人主義を剥き出して、権威や権力に真っ向から立ち向かおうとする。よくテレビなんかでも見たことありますよね。

日本人は「世間のルール」があり、「世間から離れたら生きていけない」といった気持ちも強いために、権利を堂々と主張することができない。

しかし、そんな「世間」には論理というものが無いんですね。

「世間」には「共通の時間意識」があり、「みんな同じ」という考えがありますから、「異質なもの」はみんなと「同じ」とはみなされず、「世間」から「ソト」として排除されるんですから。そこには個人が無いわけですから、個人の中身(「健常者だけどできる仕事が無い、でも生きるためのお金が必要。死にたい。」となる個人の事情も無視)なんてどうでも良いわけです。そんなものに論理もクソも無いわけですね。

したがって「仕事無いなんて選り好みしすぎだ!!甘えるな!」「そんな甘えた奴に公助を受ける義務はない!!」などとセミリタイア者が自己責任と言って、弱者に吐くセリフは、セミリタイア界隈の「世間のルール」に逸脱した者に対し、情動に駆られて吐き出されたものであり、そこに合理性などは存在しないわけです。

日本の差別がきわめて根が深いのは、「呪術性のルール」があるために、病や犯罪をケガレ(=汚れ)と考え、それらを「清浄」な「世間」から排除しようとするからである。これは、元ハンセン病患者や家族にたいする差別が典型だが、無意識にせよ根底に、感染者にたいするケガレの意識が働いていると考えられるのだ。

犯罪や病気だけでなく、自立意志の無い、権利だけを主張し、社会保障の恩恵を受けようとする人間に対しても、クズと呼び、これも「ケガレ」として扱っていると思います。

「呪術性」ですから、当然論理もクソもありません。

いかにバカらしいかと思えてくると思います。

セミリタイア者は自分のことだけを考えて生きましょう

セミリタイア者に対してはこう思います。

苦労したけど、セミリタイア達成して、労働から解放されて、今は楽しく生きてんだから、もうそれで良いじゃない

環境は酷かったけど、何とかお金貯めて、セミリタイア達成したんだ!!っていう苦労話は聞いてて共感する部分もありますけども。

セミリタイア達成した!!今は幸せです!それだけ言っておけば良いんです。過去に苦労したとしても、今は楽しく余裕のある生活をしているんだから自分の人生を楽しんでおけば良いんです。わざわざ他人に口出しする必要ない。

非論理的な「世間のルール」に囚われ、情動的に自己責任論を振りかざし、相手の事情や背景を無視して叩いてるだけじゃ、害悪でしかありません。

それに気づくべきですね。

 

セミリタイア者自身も世間のルールから逸脱した者として、「納税の義務も果たさないクズ!!」「労働から逃れた甘えた奴!!」などと言われ、迫害されてるうちに、「俺は今まで労働を必死に頑張って自力で貯めた金で生活しているんだ!!お前らに文句言われる筋合いは無い!!」という考えが強くなり、それがいつの間にかルールとしてセミリタイア者の中で定着してしまったのかもしれません。

日本も一時期は「世間」が消滅されかかっていた時期もあったようですが、1990年代に非正規労働の増加や成果主義などの新自由主義的な「強い個人になりなさい」といった無理難題に直面してから、多大なストレスを受けるようになり、そのストレスに抗うように社会の後景にあった「世間」が再び顕在化してしまったと言われています。

セミリタイア者の状況はこれと何となく似ていますね。

なので、そういったルールに縛られた考えを辞め、他人は他人、自分は自分と考え、自分が楽しく幸せに生きることを意識するべきです。

 

それと生活保護受給者の中にはとんでもない奴がいるから自己責任論を振りかざすセミリタイア者の意見も分からないでもないと言った意見もありましたが、そんなとんでもない奴だけに目を向けても仕方ないのですよ。でもそういう人も元々は真面目な人だったかもしれません。あまりに日本が理不尽だから逃げ道を作るために考えを利己的な考えに変えた人間かもしれません。世間から抑えに抑えつけられ、爆発してとんでもない奴と言われるような攻撃的な人間になったのかもしれません。仕方がないのですよ。

私も仕事ができないで本気で悩んでる時に、周りから「努力が足りない」「甘えるな」と言われてかなり苦痛でしたが、何も変えることができなかったので、もう完全に開き直って利己的な人間になったんですよ。法律に違反してなければ良いという考えになりました。

それと、元から「自助できる者だけが労働から解放されるべきだ。」というような「世間のルール」がありますから、そのルールの対象の範囲である生活保護受給に関しても、とんでもない人間が受給者にいるとなると、元から心にある生活保護受給者に対する印象のバイアスにさらに拍車がかかり、「やはり生活保護受給者は筋金入りのろくでなしばかりだ!!」といったイメージをさらに抱いてしまうとも言えます。

 

日本人はもっと利己的に権利意識を持って生きるべきです。仕事したくない、仕事がするのが苦痛だと思う人間は、じゃんじゃん権利を主張して、生活保護なり何なり利用できるものは利用して良いんですよ。案件満たせば法的に問題ないわけですから

生活保護を受けるのもそれなりに頭使って大変だとは思いますが、労働の苦痛に比べたらマシでしょう。自殺願望のある人も利用できる社会保障は受けるだけ受けてみて、休んで、気持ちの整理の期間を作りましょう。

この日本、いや「世間」が消滅することはとてつもなく可能性が低いと思うので、「世間」の構造を理解したうえで、「世間」の目に負けず、権利意識を持って、利己的に自由に生きましょう。